「カエル」犯罪物語 [日録雑感]
本日も「猛暑」の16日。
ぼ~っとした脳みそで、今日の昼飯はどうしようか、と朝から考える爺だった。爺になると「食い気」かな。
これさえもなくなれば「三途の川」も近いというから怖い。
このブログも、それなりの「文の組み合わせ」で楽しんでいるのだが、やはり「俳句」が世界で一番短く季節なども含みこみのモノらしい。(そうであるかどうかはわからぬので、わからぬことを書くなという人もいるだろうがそれはそれでご了承ください。)
ネットない時期、中学高学年だったか記憶は薄れている。
アマガエルの「お尻に」空間のある植物の茎で、空気を吹き込むのだが、うまくなれば「生きているのが」下手だと「腹」が爆発。
その時期は、自分は科学的な興味ある実験をしているのだとの「立場」一本やりだ。
やがて進学して文学に興味を持つ「ニキビの対処」に悩む時期。
攻撃的な精神も自分の内部に進めば「もののあわれ」まではいかないが、なぜか「俳句の一茶」に集中した。
どうやら「カエル」という消えた記憶がどこかで知らない間に、つながって浮上したのだろう。
爺だが、ネットでのニュースぐらいや簡単な知らないことを作業はできるようになった。(それ以上のコトガラは無理だ。最近も「無料で」ダウンロードできますという「あるコト」で失敗。無料というと貧しい暮らし体験からか飛びついてしまう。ソ連邦崩壊、都市にはいつも行列があった風景。歩くときは必ず袋は秘術品。「失礼ですが、この列の最後尾はここかな。ときに何時間前から並びましたかな。そうですな生まれた孫が三歳になるか。この蘊蓄あるユーモア空気が好きだ。あるコトに戻ると結局は使用するならば「ある使用料金」が要求されるのだが、うっかりインストールまで終了すれば「除去」するのにあれこれと3時間もかかるのだから、まさかロシア風ユーモアを知っているのかな。)
Wordが「ある意味で使いなくなったが」ワードパットがあると知って昨日から使っている。そこにネットで知った「一茶」を記録した。
次のようなことだが、
やせ蛙 負けるな一茶 これにあり
この俳句に含まれている季語は「やせ蛙」の部分です。
「蛙」は通常春の季語ですが、小林一茶が詠んだこの「やせ蛙」はヒキガエルであったと考えられています。
現代語訳にしてもなかなかヒキガエルとまで訳されないので勘違いされがちですが、ヒキガエルは夏の季語ですので、この俳句は夏に詠まれたということがわかります。
この句が詠まれる時、2匹のオス蛙がメス蛙を狙って争いをしていたと言われています。
①自らの不遇を詠んだといわれる説
1つ目は「自らの不遇を詠んだといわれる説」です。
小林一茶は、20代の頃からすでに白髪頭でその風貌から女性からモテず52歳まで結婚が出来ていませんでした。
②虚弱児な子供に対して詠んだといわれる説
2つ目は「虚弱児な子供に対して詠んだといわれる説」です。
小林一茶は、52歳で初めて結婚。その時に生まれた男の子は虚弱児で、生まれてからたった1ヶ月ほどで亡くなってしまいます。
そのあと長女、次男、三男と生まれましたが全員幼い頃に亡くなってしまいます。
小林一茶は、1763年に信濃北部の農家に生まれました。
本名は小林弥太郎。家は、中くらいの自作農でありましたが、この土地は痩せた火山灰地であったため、生活はあまり楽ではありませんでした。
一茶の母は一茶が3歳の時に亡くなっていて、一茶の父は再婚。その後、義理の母から弟が生まれましたが義理の母と弟とは仲が悪かったそうです。
そして、そのままうまく行かず15歳で故郷を出ることになります。その後25歳の時葛飾派俳人の門人となり、その後28歳で溝口素丸に入門します。
一茶は58歳の時に脳卒中で倒れ半身不随になり、そして家が火事になったりと波乱な人生を送り、1827年に生活していた土蔵の中で息を引き取りました。
そうか「ヒキガエル」だったのか。
これで爺の悲しい「犯罪」も許される。
それにしても猛暑の「三連休」なかびだ。
ぼ~っとした脳みそで、今日の昼飯はどうしようか、と朝から考える爺だった。爺になると「食い気」かな。
これさえもなくなれば「三途の川」も近いというから怖い。
このブログも、それなりの「文の組み合わせ」で楽しんでいるのだが、やはり「俳句」が世界で一番短く季節なども含みこみのモノらしい。(そうであるかどうかはわからぬので、わからぬことを書くなという人もいるだろうがそれはそれでご了承ください。)
ネットない時期、中学高学年だったか記憶は薄れている。
アマガエルの「お尻に」空間のある植物の茎で、空気を吹き込むのだが、うまくなれば「生きているのが」下手だと「腹」が爆発。
その時期は、自分は科学的な興味ある実験をしているのだとの「立場」一本やりだ。
やがて進学して文学に興味を持つ「ニキビの対処」に悩む時期。
攻撃的な精神も自分の内部に進めば「もののあわれ」まではいかないが、なぜか「俳句の一茶」に集中した。
どうやら「カエル」という消えた記憶がどこかで知らない間に、つながって浮上したのだろう。
爺だが、ネットでのニュースぐらいや簡単な知らないことを作業はできるようになった。(それ以上のコトガラは無理だ。最近も「無料で」ダウンロードできますという「あるコト」で失敗。無料というと貧しい暮らし体験からか飛びついてしまう。ソ連邦崩壊、都市にはいつも行列があった風景。歩くときは必ず袋は秘術品。「失礼ですが、この列の最後尾はここかな。ときに何時間前から並びましたかな。そうですな生まれた孫が三歳になるか。この蘊蓄あるユーモア空気が好きだ。あるコトに戻ると結局は使用するならば「ある使用料金」が要求されるのだが、うっかりインストールまで終了すれば「除去」するのにあれこれと3時間もかかるのだから、まさかロシア風ユーモアを知っているのかな。)
Wordが「ある意味で使いなくなったが」ワードパットがあると知って昨日から使っている。そこにネットで知った「一茶」を記録した。
次のようなことだが、
やせ蛙 負けるな一茶 これにあり
この俳句に含まれている季語は「やせ蛙」の部分です。
「蛙」は通常春の季語ですが、小林一茶が詠んだこの「やせ蛙」はヒキガエルであったと考えられています。
現代語訳にしてもなかなかヒキガエルとまで訳されないので勘違いされがちですが、ヒキガエルは夏の季語ですので、この俳句は夏に詠まれたということがわかります。
この句が詠まれる時、2匹のオス蛙がメス蛙を狙って争いをしていたと言われています。
①自らの不遇を詠んだといわれる説
1つ目は「自らの不遇を詠んだといわれる説」です。
小林一茶は、20代の頃からすでに白髪頭でその風貌から女性からモテず52歳まで結婚が出来ていませんでした。
②虚弱児な子供に対して詠んだといわれる説
2つ目は「虚弱児な子供に対して詠んだといわれる説」です。
小林一茶は、52歳で初めて結婚。その時に生まれた男の子は虚弱児で、生まれてからたった1ヶ月ほどで亡くなってしまいます。
そのあと長女、次男、三男と生まれましたが全員幼い頃に亡くなってしまいます。
小林一茶は、1763年に信濃北部の農家に生まれました。
本名は小林弥太郎。家は、中くらいの自作農でありましたが、この土地は痩せた火山灰地であったため、生活はあまり楽ではありませんでした。
一茶の母は一茶が3歳の時に亡くなっていて、一茶の父は再婚。その後、義理の母から弟が生まれましたが義理の母と弟とは仲が悪かったそうです。
そして、そのままうまく行かず15歳で故郷を出ることになります。その後25歳の時葛飾派俳人の門人となり、その後28歳で溝口素丸に入門します。
一茶は58歳の時に脳卒中で倒れ半身不随になり、そして家が火事になったりと波乱な人生を送り、1827年に生活していた土蔵の中で息を引き取りました。
そうか「ヒキガエル」だったのか。
これで爺の悲しい「犯罪」も許される。
それにしても猛暑の「三連休」なかびだ。
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