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「笑いの止まらぬ」昨今の風景小話 [日録雑感]

いつも6時頃には「夕食」の食卓に着く習慣になった。


その前から焼酎のお湯割りを一杯だけ飲んで、食事に備える。


麦の焼酎で25℃がちょうど身体にあい始めたようだ。


以前は、体力もあり、日本酒の「冷やとか温めたもの」。


更に調子が良いならば、スキー」もおいしかっった。

当然だが、仕事も「終了し、お払い箱」になっても財布がまだまだ「厚ければ」馴染みの店も歩いてはいた。


その時の「一杯めは」酒場のご挨拶「ビール」だった。

コップ一杯で終えて、残りは「店主」に注ぐために残しておき、自分は日本酒が多かった。それも「コップ」でだが、これは、お銚子で早めに勘定の計算をするストップの呑み助の計算でもあった。
というのは、酒場のお銚子はご存じの「量しか入らず」計算はしやすかったからだ。


コップ酒は昔から「書生の酒飲み」と言われたが、実は店のお銚子に量目やお勘定を気にせずに飲む賢い方法でもあったのだ。

 

コップなら、自分の飲むスピードや酔い方でいろいろと変化ができる。

ただし、品のよい「店」やご婦人のいる店では「嫌がられた」が、自分はどうも書生じみた飲み方が染みつきすまんといえばよかった。

その代りで、ご婦人が飲むモノには「黙って」従っていたというものだろう、店の売り上げに貢献するご婦人の飲み物まで「縛ること」が「野暮」というものだ。


嫌な話しだが、自分のカネではなく「公的なカネ」で飲み食いする話が多くなった。それも「政治の世界」で「カネと政治」がネタになると、江戸時期では「よみうり」という「かわら版」だというが、今では「週刊誌」だろうか?


落語の世界にも「かわら版」の話しはよく使われる。


庶民世界の「息抜き」「ガス抜き」といわれるが、面白かったのだろうな、自分の知らない世間の「動き」が、なんだか「身近に」感じられたのだから。


「週刊誌」だってそうだ。


自分で使ったこともない金額の数字に驚くのだ。

あれが「数百万円」」ぐらいなら、関心はもたず「なんだ、「政界を泳ぐのによほどカネに困っていたのだろうな」という感覚の反応だろうな。


それが「数千万円」と言われれば、おいおい「生涯100歳時代」で「2千万円の貯蓄」があっても苦労の汗がでてくる「世間」を舐めるんじゃないぜ」といセリフの必要を感じるご時世だ。


いつの世も「世間を生きる庶民」をバカにするのは、そうかなと「許されも」する。


だが、公的な「カネ」を、たまたま自分の生き方での運の良さで射止めた「椅子の」権威で自由にできるのは、それは「違うというよりは」、その椅子に座るまで学んできた「見識」が、違っているんだよとわからぬ「アホさ」加減の情けなさを「庶民はあざけって」いるのではなく「笑っている」のを知らないで、真面目に「自己の見識」を披露する「タヌキと狐の歌舞伎」で演じる「役者ぶり」なのだから、ますます笑いが止まらぬ昨今の世間風景だ。

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