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丹波篠山の「黒豆」の話し [日録雑感]

なるほどな、いうブログ記事を読んだ。


最近は、「移住問題」や「農業の大切さ」などの報道が目に付く。


ましてや「過疎問題」だ。


若者は仕事がなく「都会に」向かうというが、


過去の「高度成長」の前後には、同じような空気が流れ、都会といっても田舎からの移住者だった。確かに昔からの都会という街には定住者は居たのだが、何代か続けばその垣根はなくなっている。
今や都会といっても「定住者と田舎からの人たち」の混在した街だ。


ましてや都市化という名前の「開発」が進み、周辺にある土地に移り住んでいった。

だから、都内といっても昼間と夜間の人口は大きな差が数字上でははっきりとしてはいるのだ。


残念なことだが「過疎地」という名前が付けられた「場所」では、こういうような人々の自由な移動がないだけに、キツクて、ますます高齢化が進み、萎んだ場所になっていく運命なのだろうか?


正月が近い。


除夜の鐘が待ちどうしい。


正月料理に欠かせない「黒豆」といえば「丹波篠山の黒豆」だろう。


そのことについて、糸井重里氏ブログにあった記事だ。


丹波篠山にテレビ番組のロケで行ったとき、
 黒豆を育てる「先生」と話す機会があった。
 あのあたりは豆類の栽培では有名な地域で、さらに、
 そこで先生と呼ばれている人だから、すごいに決まってる。
 なにを話してもらったか細かいところは忘れているが、
 よく憶えているのは経験についての話だった。
 「いくらベテランとか言われてても、
 農作物というのは1年に一度しか試せないんだからね。
 10年やっても10回しかやったことないんだから、
 みんなたいして経験なんかないんだよ」と。
 しかも、その一度ずつの試みに失敗するわけにはいかない。
 丹精込めてやってきた手間も苦労も売上げも失ってしまう。
 その仕事の成果で生活を成り立たせているのだから、
 失敗するわけにはいかないのだが、
 いままで以上のものをつくるための試みは必要だ。
 そして、むろん試みには失敗の可能性だってなくはない。
 前と同じことだけやっていたらよかったのに、
 と思うこともあったかもしれない。
 しかし、たぶん「先生」は近隣の農家の方々よりも、
 試みることと、記録することの多い人だったのだ。
 他のあらゆる仕事が同じなんだよなぁ、
 と、そのときも思ったが、最近またよく思うようになった。
 米にしても黒豆にしても試みること自体が「機会」なのだ。
 この一度を逃したら次にそのチャンスを得るまでに、
 また1年待たなければならない。
 しかし、ぼくらのやっているような仕事は、
 逆に1日に何度でもの「機会」が見つけられる。
 これを逃しても、すぐに「次の試み」が考えつけばいい。
 しかし、そういう仕事の場合には、
 「次の試み」を考えることを逃してしまうのである。
 いいものというのは、「次の試み」の繰り返しのなかに
 唐突に出現したりするものなのだ。
 アイディアが空から降ってくるなんてことはない。
 どうも、これでいいのかなぁという
 「次の試み」が呼び出してくれるものなのだ。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
黒豆を煮る日が近づいてきたなぁと思いながら、書きました。
何気なく、こんな風に書ける糸井氏の視点にはいつも、なるほどなという感想だ。
早く来い来いお正月。

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