朝一番早い人は誰だかな [日録雑感]
情報社会というコトバが盛んに使われだしても、よく理解はできなかった。
新聞は、購読料も高く(爺の暮らしではということで、情報の価値と販売価格の関係には無知だが)一紙のみで、ラジヲ、テレビ番組を見たり、知らない社会の「あれこれ」を読んでいる程度だ。
購読は習慣のもんだいだろうな、という程度の認識だ。字が読めるようになってからは、我が家にも某新聞が早朝に配達されていた。
玄関に取りに行くのが習慣となっていた。
小学校の何年生かは記憶に薄いが、中学生になったら「新聞の漢字」が読めなければ勉強についていけないよ、と注意されて、とにかくどこの紙面を読めばいいのかわからないでいると、教師が「社説だ」という。
書いてある内容は理解が不可能でも、ここにでてくる「漢字」は高校入試でも必読だと脅かされて、書くのだが、読めないので辞書を買ってもらった記憶は、今なお残っている。我が家での「辞書類」の第一号だった。
そういうわけで、情報社会といわれても、「漢字」を知ることで始まっただけだ。
社会人になって助かったのは、とにかく辞書を開いたり、専門用語などの調べにも、素早く対応ができたことだった。
当時はネット社会もなく、携帯もない時期で、知らないことは「辞書類」をそれぞれ引きながら、「意味を」自分の中で咀嚼して立体的に作り直すしかなかった。
今は、パソコンも身近にあるし、なるほど、こういう事件が起きているのだな、という程度は爺でも理解できるようにはなっている。
でも、「携帯」は、持たない主義だ。
「主義」といっても大げさな理屈はない。購入する「財布」が薄いだけだ。
パソコンで各新聞社のニュースが見れるのは便利で、某社はこう書いているが、某社以外は、と知ることができるので、新聞社の姿勢が解かる。
とは言っても、各社を見ると「どこも」これ以上は契約が必要とか、アドレスを書きなさいという。
どうも「報道の自由」とか「開かれた情報」といっても、「閉じられて」いる匂いが強くなり、それ以上は「必要なし」と流し読みをしている程度だ。
最近の将棋世界。藤井氏の天才的進撃を知りたくとも、各社とも「購読記載か、アドレス要求」だらけだった。
これには、困り、その都度に、寒い中を図書館まで歩いて出向く。
ま~「健康のことを」考えて、そうしているだけだ。
毎日、一番早いのは、江戸では「納豆売りや、シジミ売り」だと池波正太郎の小説にはでてくるが、昨今は「新聞配達の若者」だ。
ご苦労様と4時半には、声をかけて受け取るだけだ。
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