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やはり上岡龍太郎は普通の人ではなかった [日録雑感]

日曜の4日。

気温上昇で喉が渇き、昼過に」は、、、、、日曜だから許してくれて、家人につまみをというと、自分の「鼻を」摘まみなさい、そこまでは面倒をみれませんというから、黙って「酒精」に逃げ込んだ。

少しだけ元気になり、さっきブログに書いたが、何か大切なことを忘れているなと考えていた。

記憶力は古いものはよく覚えているのだが、新しいことは老人になると時間がかかるのが普通だという。そう、爺は「普通人」なのだ、ボケ老人ではないと強気に構えたが、なかなか思い出せず、「最近亡くなった人、関西の人、話芸の上手い人」この流れで思いだした。

記事には、

元タレントの上岡龍太郎さんが死去、81歳…横山ノックさんらと「漫画トリオ」 2023/06/02 12:20 上岡龍太郎さん 【読売新聞社】 (読売新聞)  テレビの司会などで活躍した元タレントの上岡龍太郎(かみおか・りゅうたろう、本名・小林龍太郎=こばやし・りゅうたろう)さんが5月19日、肺がんと間質性肺炎で死去した。81歳だった。告別式は親族で済ませた。  京都府出身。高校時代からロカビリーバンドに興味を持ち、ジャズ喫茶の司会などを経て、1960年、横山ノックらと「漫画トリオ」を結成、「横山パンチ」の芸名でデビューした。鋭いツッコミで手腕を発揮し、音曲を取り入れたトリオ漫才が主流だった時代に、新たな笑いのスタイルを定着させた。

この人だ。

だが、もう一つぐらいがあったはずだ。

メモ帳をひっくり返す。
こういう時の「メモ帳」は大切だ。

マヒナスターズの甘ったるいムード歌謡曲の作詞家の顔なのだ。

「わたしって駄目な女ね」の作詞で、大杉久仁子が歌唱していたのだ。

それも「1968年」。

世界の学生は「ベトナム反戦」で忙しく、新たな「文化風俗」長髪やギター一本のフーテン族、ヒッピー族という空気も作ったのだ。

そういえば開高健は朝日新聞の特派員、数人しか生き残らなかった現地から帰還した作家だった。

そのベトナムに、あすから始まる棋聖戦に20歳の藤井君が行くのも何かの巡り合わせかな。

「1968年」を境に「何か不思議な空気」が流れ始めたことだけは確かだ。

爺も「若かった」。

その分、学生という「身分での」垢の付き方は早かった。

その後の世間のヤスリで磨かれて、何とか糧を持ち、家族を持ち、子育ても過ごしてきた(大きな声では言えないが、この分野は家人任せで今でも当時のことになると怒られている始末だ)、子育て中の男性諸君、ここは我慢して一生懸命というコトバで耐えねば、老後は惨めになるよ、とだけは、年配者というか、嫌われる高齢者の身であっても、声を大にしてこの世の最後の締めにしておくよ。

そういう分けで、「上岡龍太郎」なる人物は
ただものではない。
それが証拠には、歌の歌詞を調べてくれたまえ。
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